女子サッカー&弱者と「ひたむき」の功罪
はじめに
女子サッカーの周りをうろうろしている「なでしこ日和(びより)」です、こんにちは。
2011年のドイツW杯の途中から、個人的に、女子サッカーを応援しはじめて9年経ちました。
今日は、その間に考えてきたことの中で、ずっとくすぶりながらも大事に考えてきたことを書こうと思います。
「ひたむき」という評価への違和感
ドイツW杯の優勝により、女子サッカー=なでしこは一気に注目を集めるスポーツになりました。
数年間はメディアに採り上げられることも多く、サッカーメディアやスポーツメディア以外にも露出が多かったと記憶しています。
その際に、女子サッカーの代名詞としてよく使われてきた「ひたむき」という長所を示す表現について、私はずっと違和感を抱いてきました。
確かに、なでしこの選手には、ひたむきさがありました。恵まれないプレー環境でも、他に仕事持ちながらであっても、その中を泳ぎ渡るように、サッカーを続けている選手が多かった。それを評価する言葉に、ひたむきという言葉はうってつけだったのではないかと思います。
でも、プレーより何よりそこをいちばんに評価されるということが、ずっと気にかかっていました。
自分の持っていたHP(なでしこ日和とは別のものです)でも何度かそのことを書いてきましたが、まったく反応はありませんでした。
おそらく私の書き方や出し方がいけなかったのでしょうが、実際に、その「ひたむき」さを第一の理由として、日本の女子サッカーを応援している方は、今も多いのではないでしょうか。
そもそもスポーツ選手に対して、日本ではそう感じている方が多い、と言ったら、もっとご納得いただけるかもしれません。
私がそこに違和感を覚える理由は、サッカーというスポーツの本質が、いわゆる「ひたむき」さと相性が良くないのではないかと感じているからです(ちなみに、和語=日本語としての「ひたむき」という言葉は、私はとても好きです)。
これは、日本のサッカーが持ち得ている感覚とも関係のある話で、今後、どのように進んでいくのかは、私には分かりません。
でも、私が好きなサッカーのプレーというのと、「ひたむき」という感覚がどうしても噛み合わないのです。私にとってのサッカーの好きな部分というのは、もっと楽しくて、ボールのオンオフ関わらず、プレーの一瞬に相手を出し抜きあう、真剣勝負の中に遊びが潜んでいる&遊びに満ちている、そういうものです。
ひたむきさは、それを支える、運動能力や精神の方向性に過ぎないと思っています。
今後、そういうサッカーにおける面白さがもし、日本のサッカーから失われていくのであれば、私はサッカーをあきらめざるを得ないのだろうなと思っています。サッカー観るために外国に移住する余裕はないし笑、できれば目の前でプレーを観たいからです。
弱者の知恵としての「ひたむき」
ただし、この「ひたむき」にたどりついた女子サッカーの歴史は、大切にすべき側面もあります。
女子サッカーがマイナースポーツであることは昔も今もおそらく変わりなく、ここまで来るまでにも、先人の方々が、か細い道を踏みしめて道を作ってきたであろうことは間違いありません。
女子サッカーは、日本の中で(おそらく世界の中であっても)、女性として、そしてスポーツの一分野としても、「弱者」としてずっと歩んできたのだと思います。
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「弱者」は、強者の前では、弱者として振る舞う方がスムーズに事を進められるという一面があります。
これは、男性社会の中での女性もそうですし、私事になりますが、20年間精神障害者としてやってきた身としては、障害者は弱者として振る舞う方が、生きる上での理解を得やすいという実感があります。
私自身、ちょうど雇用機会均等法が始まってすぐの頃に就職期を迎え、当時、部屋に入り切らないほどの就職資料が頼みもしないのに送られてくる状況にありましたが(私の場合、名前の関係で男性と間違えられていた可能性もあり)、実質的には、まだ女性は男性以上にアピールできなければ、同等に仕事を引き受けていくことは難しかった。それは今も同様、もしかすると今の日本はもっと厳しい状況かもしれません。
未来での出産による休業という可能性を抱えながら、どこまで自分を真っ直ぐに押し通すかを考えるより、むしろ、未来の離脱を含む女性として、ゆるく慎ましく、そしてひたむきに振る舞っていた方が、同じ結果の仕事であったとしてもスムーズに進められる可能性がありました。
私自身は、勤めていた業界の関係もあって(出版です)、そうした忖度は、ごく日常的な限られた人間関係の上以外では必要なく(これがまたヤクザな世界でしたが笑)、業務内容的には、むしろ女性の特性を活かす方面に、自らシフトしていっていました。
これらの選択は、男性優位の世の中で、女性として生きる上での知恵であり、弱者の立場に光を当てるためにあえて引き受けるという知恵でもあったと思います。
女子サッカーが、日本に馴染む上では、そうした弱者としてのポジショニング、知恵が必要な場面も、数多くあったのではないでしょうか。
私はそのことを、まさに尊ばれるべき「知恵」だと思っており、そうした知恵を先人の皆さんが存分に駆使できたのも、恵まれない状況であっても自分はサッカーをやるという覚悟の上においてだったのではないかと思います。
弱者が弱者でなくなるとき
でも、今は、様々なレベルで、多様性(ダイバーシティ)が注目される時代となり、来年から始まる女子サッカープロリーグであるWEリーグでは、ついに、女性のエンパワーメント(能力開花)が押し出される環境になりました。
弱者は、「弱者」というくくりでなく、自分の各々の立場を、真の意味で引き受ける時代になっていきます。
強者の側の変化が急務とされがちですが、弱者の側が、正統に個々の内容をもって自分を主張していくことへの変化も求められていくでしょう。
単なる弱者としての権限奪回では、状況を転覆できても後が持ちません。
何がしたいか、何をどこまで求めていくか。どういう世界にしたいか。
周囲の状況が転回するのを待つのではなく、自分の居場所を提案していけるような方法を模索していく必要があるのかなと思います。
ジェンダーという問題への但し書き
ここで一つ、女性という弱者=ジェンダーの問題について、挟んでおきたいことがあります。
今は、性的な区分が曖昧になってきており、男性らしさ、女性らしさを良しとしない、その他の性とも言われるべき方々も多くなってきました。
ダイバーシティが尊重される時代にあって、そういう方々を圧迫しない世の中になることは、素晴らしいと思います。
ただ、この世ではおそらく生物学的に、男性と女性の区分はなくならないと思われ、その上で言うと、男性らしさや女性らしさを否定することもまた、一種の差別になりうるのではないかと私は感じます。性の否定は、生物学的に、人間という種を不利に追い込むだけではないのか。
多様性を肯定するとは、つまり豊かさを肯定するということであり、自分を他と区別する上で、自分ではないという意味で否定材料となる属性が出てくるとしても、その属性を持っている相手を否定するべきではない。
これは、性ばかりでなく、いずれの属性に対しても言えることです。
それが実現できないかぎり、常に弱者と強者の名前や属性が入れ替わるだけで、差別という無理解は永遠になくなりません。
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話が真面目になりすぎてきたので(これが私の悪い癖。笑)、言いたいことをまとめると、最近、女子サッカーから「女子」を外そうという動きがあるようですが、私は女子サッカーは別に、「女子」つきでいいんじゃん?と思います。
性差を強制的に消失させることは、私は上に書いた理由で、決していいとは思いません。
女子には(男子にはない、まさに男子と区別する意味での)女子の強みがあるし、女子であるからこそ味方にしやすい分野も多いはずです。
生活密着のスポーツとしての道?
最近流行りのサステナブル(持続可能な世界)を考える分野や、エネルギー問題(最近は再生可能エネルギーという選択が経済的にも可能になってきました)、エシカルファッション(環境に配慮した衣服の循環を目指す)、ロスフードやロスフラワー(使用されずに廃棄される各種のものを減らしたり再利用したりする)、ゼロ・ウェイスト(ごみゼロ問題)、菜食主義など、環境問題と密接に結びついた方面では、男性よりも女性の活躍を多く見かけます。
おそらく、「生活」に近い、または生活を実際に動かしているのが、男性よりも女性だからなのだろうと思います。
そうした分野と女子サッカーがうまく手を結び、ウィンウィンの関係になれれば、日本での先進分野に近くなるだけでなく、女性にもっと女子サッカーに興味を持ってもらったり、試合会場に呼び込んでくることも、今より可能になるかもしれません。
生活に近いスポーツになっていければ、女性を中心としたファミリーに、地域密着で日常的な観戦や運動を促すことにもつながっていくかもしれない。
日本での女性のエンパワーメントが、そうした日本全体における生活の質の向上に結びつく可能性は高いと思います。
サッカーも生活も、(未来に向けて)楽しもうぜ。
今はなぜ女子しか観ないのか
最後に、私自身の課題であった、「男子サッカーから入ったのに今はなぜ女子しか観ないのか」という点について、お話ししておきます。
私が男子サッカーから離れたのは、2010年に、10年ぶりに南アフリカW杯を機に再びサッカーが観られるようになって(10年間、病の都合上、いろいろ困難な状態にありました)、しばらく経った頃のことで、(今からものすごい乱暴なことを言いますよ?)日本のほとんどの男子の選手が体育会系かカッコつけの幼稚な人たちにしか見えなくなったのです。そう思った途端、サッカーが面白くなくなった。
そんなときにたまたまW杯で観たなでしこジャパンの選手は、自分がこの道を選んできたという覚悟と、その道を歩んできた知恵の経験値が、とても高いように感じました。それは選手同士の関係性にも、チームで表現できていたことにも、個々のプレーにも影響していたと思います。そうした覚悟と知恵に支えられた彼女たちのサッカーは、あの大舞台で、本気で楽しそうで、泣けるほど素敵だった。
その記憶と、今もたまに見かける、女子サッカーでの、ワタシ的に感じている面白さ、それによって、私は今も女子サッカーを観ています。
私は、そもそも足でボールを扱うことに始まる「困難さ」を基本としたサッカーというスポーツが、大好きです。女性がサッカーをする姿も大好き。男性にはない美しさがあると、個人的に思っています。
私が好きなサッカーの本質は、体力や体格が男性より劣っていたとしても、何のハンデもなく(ハンデがないというのは相手も同じ女性だからで、サッカーは対人のスポーツだからです)、実現できるものだとも思っています。
だから、女子であることを全然不利だと思わない。
おわりに
こんな私ですが、いつまで、女子サッカーの周囲をうろうろしていられるか、自分にも分かりません。心が人よりも弱っちくなっているせいで、すぐにくじけるからです。
でも、女子サッカーが本当にこの日本で盛んになる姿が、いつか見たい。
なんかねぇ、叶うといいですねぇ。
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