スポーツというのは男性性の世界なのか。
ようやく無事に始まったなでしこリーグの試合をYouTubeで観ながら、女子サッカーについて、またその周辺について、考えています。
セクハラ発言はなぜ起こるか?
リーグの試合を観ていて気になっているのが、YouTubeのコメント欄に入ってくるセクハラとも女性蔑視とも思われるコメント。ほとんど巨大匿名掲示板のノリなわけですが、どうしてこんな表に出てる明るい場所でこうなるかな??笑
YouTubeのコメント欄のスタンダードってこれなんですかね?(私が他で見ているものは少なくとも違う)
こういう発言は基本スルーするとしても、やはり納得行かずに思っていたら、ちょうど野口亜弥さんが、こんなツイートをしてくださっていました。
女性著名人が(男性と比べ)ネット上で膨大な誹謗中傷を受けている #ネットミソジニー があまり知られていないと、研究者たちが警告している。サッカー界も同じ状況。一般的な誹謗中傷だけでなく、ジェンダーの視点も含め選手を守らないと、プロ化に向け危険。 @ece_malicia https://t.co/R5LGn63QfH
— 野口亜弥/社会課題に対するスポーツの役割を考えてみる_Aya Noguchi (@noguchiaya) July 22, 2020
石井裕和さんが、昨年の1月に書いておられたnoteの記事を拾われてのご意見です。
この記事では、選手というのが、アイドルとアスリートという2つの言葉を使った議論が出てきているのですが(むしろこういう形で問題にしていただいたことで、女子サッカーのファンにおける課題が前進してきたのかもしれません)、私は、ずっと、この問題に対して、アプローチの仕方が、なんか違うと思ってきました。
女子サッカーにおいて、選手が、男性から立場をおとしめられているのは、もっと別の理由なんじゃないかという感じがしていたのです。
蔑視のもとは家父長制かもしれない
そう思っていたところ、引用したツイートのリプライの一環として、野口亜弥さんがこんな記事を紹介してくださっていました。
「ミソジニー」というのは、女性嫌悪や女性蔑視など、女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のこと(Wikipedia)なんですが、これが実は、「家父長制」と関係があるのではないか、そういう考え方だと合点がいくのではないか、というのが、この記事の主旨です。
以下、今の文脈において、重要なところだけ引用させていただきます(太字は私によるもの)。
著者によれば、家父長制とは、社会や時代によってさまざまに異なった制度であるものの、「女性という女性、またはほとんどの女性を、その内部の特定の男性あるいは男性たちとの関係において隷属的な立場に置く」ような制度であるという。
特定の男性(例えば父や夫)との関係において隷属的な立場に置かれるにすぎない場合でも、女性は男性に対して不利な立場におかれるので、その社会で男性は女性よりも優位な地位を占めるようになる。このような家父長制秩序を支える社会統制機能こそ、ミソジニーの機能であり、それは家父長制という女性を支配するシステムの重要な構成要素なのだと、著者は言う。
つまり、家父長制に抵抗する女性やそこから逸脱しようとする女性に対するネガティブな制裁行為(いわゆるムチ)こそが、ミソジニーだということになる。
このミソジニーの考え方を当てはめると、ネットにおける女性へのあからさまな(愛情の裏返し以上に強烈な)セクハラな蔑視発言が、理解できたんです。
要するに、女子サッカーでいえば、本来支配できるはずの女性が、男性と同様にサッカーをプレーしようとすることへの、ネガティブな制裁行為としての蔑視発言ということです。
日本にも、家父長制は深く刻み込まれています。日本の女性のエンパワーメントというのは、ここを解除していくことからしか始まらないのじゃないかなと思ったりする。
家父長制は、家系の維持など、悪い側面ばかりを持っているとはかぎりませんが、少なくとも女性に光を当てるには、最も厚い壁となっているかもしれない。
反論だけでは解決にならない
たとえば、女性蔑視の発言に、以下の記事のような見事な反論を女性がしても、反論をすることにはとても大事な意味があるんだけれども(私がここでこんなふうに考えているのは、こういう反論を手がかりにしてこそです)、おそらく問題としては解決しないんじゃないかと感じます。
反論によって戦うこと、それ自体が、男性の土俵に立ってしまっているように思うからです。
スポーツというのは男性性の世界?
ここで、Facebookでお友達になってくださっている方が書いた、noteの記事を引用します。
「『女性が、成長や拡大していく為に大切なステップや考え方』を考えた」というタイトルで、まさに女性のエンパワーメントを実現するための記事です。こうやって考えてくださることにはとても感謝の念がわきました。
とはいえ、私としては、この記事で書かれている女性に対する認識の仕方自体が、だいぶ男性寄りの考え方かもなぁと思いました(もちろんそこには悪意はひとかけらもなく、むしろ女性への理解を進めた結果と感じます)。
そして私が最も気になったのは、この記事中に、
スポーツはかなり男性性の世界なんだと思う。
と書かれてあったことです。
そのときに、なんか、上のミソジニー的な解釈も伴って、なるほどなぁと思って。
スポーツがそもそも、男性性のまさった世界だとすると、そこで活躍する女性は最初から大きなハンデを負っていることになります。
少なくとも、今のスポーツは、「男性性のもとで」動いている世界なのかもしれない。
その中で、女性が同じように動こうとするから、ネガティブな制裁行為としての蔑視発言が生まれる。また、それを生むような、選手を安易に支配できると思われるような思考回路も発生しているのかもなって。
女性は知恵で戦う
しかし思うんです。スポーツって本当に根源的に、あるいは未来的にも、男性性なものなのかな?
もちろん、闘いが根本にある以上、決して女性性的ではないかもしれません。でも、スポーツには結果だけじゃなく結果に至る過程がありますよね?
女性だって、戦うときは戦います。腕力でではなく、知恵で。特に現実を乗り越えていくときの女性の(必ずしも対人ではない)知恵は素晴らしいものがあるし、女性の知恵同士の戦いはそれはそれは凄まじいときだってある。笑
そういう知恵の戦いを、私はスポーツの場でも、特にサッカーのピッチ上では展開できる余地があると思っているし、実際、それが私が女子サッカーを好きな部分でもあると思っています。
男性性に傾くのではない、女性性を手放す形ではない、女性におけるスポーツを、サッカーを、作り上げていくこと。
それは、例えば、イタリアとアルゼンチンと日本のサッカーくらい、いやそれよりもっと、全然違うものかもしれません。
でも、そんなものがもし、もっと強い形で生み出せたら面白いと思う。
多様性が真に成立するためには
今大きな問題になっているレイシズム(人種主義)も、究極的には、男女という性別における問題になってくると思います。
よく、差別をなくそう、と言って、一様になればいい=区別をなくせばいいという形で、多様性を否定してしまうようなシーンを見かけるのですが、人それぞれに個性があるように、一側面だけを切り取れば「差」というのはどこにでもあるし、なくしようがないし、なくすべきものでもない。切り取る側面を変えれば、まったく違う要素が現れます。それが多様性の素晴らしさです。
多様性が成立するには、自分を認めてもらうのと同時に、他人のことも認めなければならないのだと思う。今どきで言うなら、人間の生も認める、コロナウイルスの生も認める。その上でどうするのか。
もっと言うなら、自分が特別な属性を持つことだけが多様性の証明ではないと思います。属性が自分をアシストしてくれることはあっても、それに依存しない方がいいと思う。人はその人それ自身で、独特な生きる才能を持っているし、その才能を発掘するのは、最終的には自分自身です。
そこさえしっかりしていれば、他種=他人を支配したり、他人より精神的に優位に立とうとする意識は必要なくないですか。
日本の女子サッカーへの期待
今後、日本の女子サッカーが、どういう形で生き残っていくか、女性がどうスポーツを、男性性一辺倒?の世界から解放して豊かにしていくか、とても楽しみな可能性が広がっていると、私は思っています。
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